はじめに、男鹿石(寒風石)の採石場のある寒風山について説明しよう。
男鹿半島の東部に位置する寒風山は最高峰で標高355mの低い山。鳥海火山帯に属する小さな火山である。全山が安山岩の熔岩から成り立ち、その上を薄い表土と芝生がおおい、なだらかな山容であるため、小・中学生の遠足地や家族づれのレクリエーションとしてにぎわう。また頂上の大回転展望台(昭和39年に完成)からの360°の展望は、すばらしく、特に眼下の男鹿半島地形がまるで箱庭のように見える。この景勝、眺望のよさは県内外に知られ、昭和45年5月に国定公園に指定。山の麓には石切場が点在しており、採石される岩石は"寒風石"とよばれ、石の産地として非常に名高い山でもある。この"寒風石"つまり男鹿石が当社のベース製品の貴重な資源となっている。

ここで、本題について話す前に、寒風火山の生い立ちのあらましを少しふれておきたい。寒風火山は、付近一帯に広がっている40m段丘と海食台地上に噴出した火山で、その活動は第四紀の終わり頃の2万年前に7回の活動があったといわれている。4回までの活動における熔岩性質はわりあい珪酸分が少なく、粘性が小さく、高い山をつくれず、長くすそ野をひく形の山体が形成されたそうである。溶岩の流れは南(脇本溶岩)北(鮪川溶岩)に分かれている。その組成は基本的に角閃石やかんらん石を含む輝石安山岩であるが、特に前者の南側に流れた脇本熔岩は、多量の角閃石が含まれ、また、エジリン・エジリン輝石を含む捕獲岩(マグマが地下から上昇する際、途中で捕獲される鉱物等)を持っていることで非常に有名である。当社の採石場はこの脇本熔岩の末端部を採掘しており2万年前の世界を知る標本が採取できる。
次の5~7回の活動熔岩は珪酸分が多く、粘性が高かった為、ドーム状の山体が形成され、組成は角閃石やかんらん石の含有量が非常に少ない輝石安山岩。このようにして寒風山のかたちができあがったそうである。

次に安山岩の分類についてみてみる。
成因の分類では花崗岩と同じ火成岩として分類される。
安山岩と花崗岩の共通した特徴は、重量大、堅硬緻密、吸水性小、耐磨耗性大、耐久性大等が上げられ、建築の内・外装仕上げ材としては、最高級の装飾材として使用されえている。


石材の圧縮強度による区分表(JIS A 5003)
種  類 圧縮強度
(N/cm2)
参考値
吸水率(%) 見掛け比重(g/cm3)
硬 石 500以上 5未満 約2.7-2.5
準硬石 500未満 100以上 5以上 15未満 約2.5-2.0
軟 石 100未満 15以上 約2.0未満

男鹿石(寒風石)の材料試験結果
試料名 :男鹿石
調定番号 :14-0163
試験方法 :JIS A 5006
試験体番号 圧縮強度(N/cm2) 吸水率(%) 見掛け比重(g/cm3)
No.1 12133以上 1.36 2.61
No.2 12201以上 1.38 2.60
No.3 12189以上 1.42 2.60

石質としては、試験結果より、石材区分として『硬石』に属し、耐久性、耐火性に優れてる。
主用途としては
[1]土木工事用:砕石、石舗装材、石垣材、護岸材、そして擁壁材(間知石、割栗石、切石など)
[2]建築用:外壁材、敷石材など
[3]その他:墓石
などに利用されている。

2万年前の地球からの贈り物"男鹿石"が我々の生活空間にどのように入り込んできたかを少し歴史的に紐解いてみると……
江戸時代、寒風石の採掘・加工・販売を手がけた石工 石川忠右衛門の棟梁 この石碑には忠右衛門が好んで口にしていたという「おもしろや 石にも苔の花ごろも」という歌が刻まれている。
"男鹿石"の開発利用は江戸時代中期といわれ、南秋田郡脇本村石工業営業者諸氏本村石材産出、創始者は故石川忠右衛門氏(久保田町亀の丁出身、佐竹家の石工大棟梁)であった言われている。明和の頃(1764)浦田村に来て寒風山麓、村々の岩石を試掘し、その石質の良美を監査し、同村三浦与兵衛の弟子として家屋の敷石、神仏の石像、風呂等を始め寒風山の石材の名を世に伝え広め数十戸の石工たちの生計を営み、公益を起こしたのは石川氏の恩沢による。また、石川忠右衛門に関する言い伝えを村人に聞いてみれば、佐竹氏の命により良質な石材を求め、南磯方面に行ったが余りに軟質のため、浦田に来て男鹿石を発見したという。現在、宗泉寺境内に地蔵尊がある。これは石川忠右衛門の刻んだものといわれている。
一般的採掘の由来については「老農渡部斧松翁伝」の中に、従来寒風山から産出される石は緻密で、硬い良質な石であると言われながらも、いわゆるお留山であった関係上、秋田藩のみに供えられ他に採取販売すること禁じられていたものであった。無尽の宝も死蔵の状況にあったのを渡部斧松が非常に遺憾に思い、藩丁に建言して藩用とする外は広く領内外に売広め国益をはかりべしと、大いに主張し、この建言が幸いにも藩丁の許しとなり、以来石材は採取され藩の財政を助け、男鹿の繁栄の一助になったといわれている。古い男鹿石の石碑としては南秋田郡琴浜村道村、永願寺の庭の隅に康永3年(1344)孝子と誌し、また男鹿市脇本駅前栗島神社境内に宝暦10年(1760)の紀年の石碑等の古いものがある。
本格的に男鹿石の採取が始められ、利用したのが石川忠右衛門以後であり、その開発地は上述した様に脇本村浦田の地であり、今も衰えることなく伝統を重んじ盛んに産出している。

本来"石"は人間の生活空間の必需品として使われてきたが、進歩とともにそれに代わるコンクリート製品があらゆる分野を占め、多量に使われた。しかし、昨今、その影響により、生態系のバランスが崩れ始め大きな環境問題に発展し、また人間社会の複雑化による精神的バランスの崩壊。そこで再度見直されてきているのが、石の文化生活である。
その中で特に注目されているのが"男鹿石"、硬くて熱に強く、されど柔らかみがあり、自然に溶け込む独特の味わい、しかも生態系のバランスを保つ特性をもっている石である。
それ故に、人間らしい生活の必要十分条件を満たしているのが 石の中の"男鹿石"である…という事を私は自負する。
株式会社 寒風
代表取締役社長 菅原 廣悦